淡窓と咸宜園

  廣瀬淡窓(1782~1856)




 幼名は寅之助、後に建、字は始め廉卿、後に子基、淡窓はその号です。天明2年(1782)4月11日に廣瀬宗家第5世三郎右衛門の長男として生まれました。
 小さい頃より学問を好み、また病身だった為、宗家第六世を弟の久兵衛にゆずり、26歳の時に桂林荘に私塾を開いて生涯学問を以て身を立てる決心をしました。
 後に現在の咸宜園に移りましたが、その独特の教育や学徳が広く全国に知れ渡り、68ヶ国の中、66ヶ国から入門者がありました。交通不便な当時にあっては、まことに驚異的なことであろうと思われます。
 その教育法は、封建制度下にありながら、「三奪法」といって、武士・町人・農民の身分、また年齢や学歴にこだわらず、平等に扱い広く門戸を開きました。入門後は無級から厳しい試験をによって9級まで昇る道が設けられていましたが、学業の他に各人の能力に応じて塾の仕事を分担させ、実務面での人材の育成にも力を入れました。
 安政3年(1856)11月1日、75歳で秋風庵(淡窓の頃は春秋園 現在文部省指定史跡)に没しました。淡窓の教えを直接受けた塾生は3,000人を越え、明治30年の閉塾までには、入門簿に記載されている門弟の人数は4,600人を数えました。


咸宜園


廣瀬淡窓が開いた私塾、咸宜園。廣瀬資料館から程近い場所に史跡咸宜園跡として保存されています。

 所在地 大分県日田市淡窓2-2-13
 TEL:0973-22-0268 (年中無休)
 
 日田市ホームページ内の咸宜園紹介ページへのリンク
 http://www.city.hita.oita.jp/kangien/