廣瀬久兵衛(1790~1871)
廣瀬久兵衛は、寛政2年(1790)豊後国日田の商人で御用達の一人(後に掛屋となる)、廣瀬宗家第5世三郎右衛門(俳号は桃秋)〔屋号・博多屋〕の3男として生まれました。長兄の淡窓が儒学への道へ進んだために、若くして家業を継ぎました。
文化13年(1816)28歳のとき、郡代塩谷大四郎正義に抜擢されて、小ヶ瀬井手、日田川通船工事の宰領を命ぜられ、その後呉崎・岩保など豊前海岸の干拓に当たり、千数百町歩に及ぶ新田を開発しました。
久兵衛は、そのほかに日田金(ひたがね)を背景にして諸藩の財政改革に貢献しました。なかでも、府内・対馬・福岡の各藩では、久兵衛が直接赴任して財政再建にあたるなど、大いに活躍しました。
久兵衛は商人でありながら私欲を押さえて義を行う生涯に徹し、人の和を重んじて日田商人の結束を図り、日田金の運営を円滑にするなど、天領日田の繁栄を築いた第一の功労者であります。明治4年、82歳で没しました。
日田は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後の各地に境を接し、大山川、玖珠川、筑後川、山国川などによって四方に通ずる、古くからの交通の要所でありました。
豊臣秀吉はこれに着目して、文禄3年(1594)ここを直轄の支配地(豊臣天領)としました。
そのあと徳川幕府は一時日田を譜代藩領としたが、貞享3年(1686)5代将軍綱吉の時、ここに代官所(永山布政所)をもうけ、豊後の天領7万石を支配させました。
明和4年(1767)日田代官揖斐十太夫政俊は、関東、美濃、飛騨、信濃の郡代と並ぶ西国筋郡代に昇進して、豊後、豊前、日向、筑前、肥後の5ヵ国15郡と天草を加えた総高17万石を支配することになったのです。
そのため日田は、明治維新まで、幕府の九州経営の拠点として、また九州諸藩ににらみを利かす要所として重要な位置を占めました。
掛屋(かけや)と日田金(ひたがね)
掛屋とは、幕府・各藩の公金の出納・管理を担当し、幕府・各藩の必要に応じてこれを送金するのを業務として、廣瀬家は久兵衛、源兵衛の2代にわたり掛屋を営みました。
日田の商人は、豊、肥、筑の各地から、米、菜種、紙、タバコなどの物産を日田に集め、中津から船で上方へ運び、戻り荷に綿などを積んで帰って、これらを各地へ販売する商業を盛んに行って、次第に富を蓄積していきました。
そのかたわら日田商人は、御用達といって、代官所と各藩との公用を取り次ぐ役割も受け持っており、そのうちのもっとも有力な商人が掛屋に選ばれました。掛屋は、代官所に入る年貢米や物産等を販売し、その代金などの公金を保管する役目でありました。
折から、財政難にあえぐ九州諸藩は日田商人の富裕さに目をつけて、借財を申し入れ、日田の掛屋は、求めに応じて諸藩に貸し付けましたが、その貸金には、郡代の威光によって貸倒れがなかったので、莫大な利益が生まれました。その貸金のことを”日田金”と呼びましたが、これにより日田は全国でも屈指の経済的繁栄を見ることが出来たのです。