資料館の紹介

 歴史と文化の町、日田。その地に咸宜園を開いた儒学者・廣瀬淡窓の生家が廣瀬資料館です。

幕末、豊後国日田に教育者「廣瀬淡窓」と実業家「廣瀬久兵衛」兄弟が活躍したことを御存じですか?

江戸時代にタイムスリップして淡窓・久兵衛に会ってみましょう。

資料館外観
         資料館外観          北家館内図(北家の向いに南家もあります)

 江戸時代、幕府の天領であった日田は、代官の庇護もあり、九州に於ける金融の中心地として、経済的に著しい繁栄がもたらされました。

 廣瀬家では第四代の月化(げっか)から代官所出入りの用達になり、第六代の久兵衛(1790年~1872年)は選ばれて「掛屋(かけや)」になり代官所の年貢米や公金などを取り扱うことを許され、その兄の淡窓(たんそう)(1782年~1856年)は長男で家業を継ぐべき立場にありましたが、身体が弱かったため、学業に進むことを決意して、家業は弟の久兵衛に譲りました。

 淡窓は「三奪(さんだつ)の法」という封建制度の当時ではユニークな教育方針で、入門者は身分・学歴・年齢を無視して、平等に最下級からスタートさせ、厳格な試験によって進級を定めるという評価制度を用いて、当時としては日本最大の規模の塾「咸宜園(かんぎえん)」を作り教育に当たりました。

 全国から集まった門弟の中には大村益次郎・高野長英・上野彦馬・長三洲・清浦奎吾など、明治維新の担い手や、ひいては日本の近代化に活躍した人々が多く含まれています。

 廣瀬家は淡窓・久兵衛の生家であり、その遺品・著書類及び当時の生活用品等が多数あり、一般の方々に江戸後期の文化・生活を知って頂くために、昭和59年(1984年)に「廣瀬資料館」として開館、平成19年(2007年)からは「公益財団法人 廣瀬資料館」として常時、500点ほどの収蔵品を展示しています。

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